LOGIN灯りを消しても、悠斗はすぐには眠れなかった。
隣で真琴が静かに呼吸している。 寝ているのか、起きているのかは分からない。 けれど、声をかけることはできなかった。 さっきの真琴の言葉が、暗い部屋の中で何度も繰り返されている。 ――悠斗の好きなものは、結構すぐ言えるの。 味濃いめの唐揚げ。 辛すぎないカレー。 夜食べるならラーメンよりうどん。 疲れている時は甘いコーヒー。 真琴は、そんな細かいことまで覚えていた。 言われて初めて、悠斗は気づいた。 それらは確かに、自分が好きなものだった。 でも、真琴がいつ覚えたのかは分からなかった。 一緒に暮翌日の昼休み、私は森下さんと休憩スペースで一緒になった。 自動販売機の前で森下さんがミルクティーを買い、私は温かい紅茶を選ぶ。「藤崎さん、昨日展示行きました?」 森下さんが何気なく聞いた。「行かなかった」「そうなんですね」「夕飯を作りたくて」 そう答えると、森下さんが少し目を丸くした。「夕飯を作りたくて展示に行かなかったんですか」「うん」「なんか、すごくいいです」「いいの?」「はい。藤崎さんの生活が、展示に勝った日ですね」 思わず笑ってしまった。「勝ち負けなの?」「気分的に」「昨日は茄子を買ったの」「茄子」「悠斗があまり好きじゃなかったから、前はあんまり買わなくて」 名前を出してから、少しだけ胸が痛んだ。 でも、言葉は止まらなかった。「でも昨日は、自分が食べたいなと思って買った」 森下さんは黙って聞いてくれていた。「味噌炒めにしたら少し焦げたけど、おいしかった」「それ、めちゃくちゃいい話です」「茄子が?」「茄子が、というより」 森下さんはミルクティーの缶を両手で持った。「藤崎さんが、自分の食べたいものをちゃんと優先したところが」 胸の奥が、静かに温かくなる。「写真、撮ったんですか?」「撮らなかった」「珍しいですね。最近、器とか花瓶とか撮ってたのに」「うん。誰かに見せる前に、自分で食べたかった」 言ってから、少し照れた。 森下さんは、ふわっと笑った。「それも、すごくいいです」「そう?」「はい。報告するための生活じゃなくて、藤崎さんが生きてる生活って感じがします」 その言葉に、私はしばらく返せなかった。 報告するための生活じゃない。
翌日、私は仕事帰りにスーパーへ寄った。 書店の前を通る道もあったけれど、今日はまっすぐ食材売り場へ向かった。 朝から少し決めていた。 今日は展示に行くかどうかより、まず夕飯をちゃんと作りたい。 誰かに見せるためではなく。 話すためでもなく。 私が食べるための夕飯を。 野菜売り場で、茄子が目に入った。 濃い紫色の皮。 隣にはピーマンと豚こま肉。 味噌炒めにしたらおいしそうだと思った。 でも、悠斗は茄子の食感があまり好きではなかった。 前の部屋で茄子を買う時、私はいつも少し迷っていた。 自分は食べたい。 でも悠斗はあまり進まない。 だったら別の野菜にしよう。 そうやって何度も棚へ戻した。 今日、私は茄子をかごに入れた。 ピーマンも入れる。 豚こま肉も。 それから豆腐と、明日の朝のヨーグルト。 かごの中を見て、少し笑った。 全部、私が食べたいものだった。◇◇◇◇ 部屋に帰ると、いつものように「ただいま」と言った。 薄い青のカーテン。 水色の花瓶。 少し元気をなくした花。 クラゲ。 丸いテーブル。 二脚の椅子。 私は買い物袋をキッチンへ運び、茄子を洗った。 包丁を入れると、白い実が現れる。 輪切りにするか、乱切りにするか迷って、今日は乱切りにした。 料理本には載っていない。 スマホで少し調べようかと思ったけれど、やめた。 多少失敗してもいい。 味噌とみりんと醤油と砂糖。 たぶん、何とかなる。 フライパンに油を引く。 茄子を入れると、じゅっと音がした。 その音が、思っていたより心地よかった。 料理はまだ得意で
翌日の昼休み、私は森下さんに夕飯の写真を見せた。 青みのある深皿に入れたかぼちゃの煮物。 少し煮崩れて、形はきれいとは言えない。 でも、器との色合いは悪くなかった。 森下さんは画面を見るなり、目を輝かせた。「すごくいいです」「本当?」「はい。かぼちゃが少し崩れてるところも、ちゃんとおいしそうです」「そこ褒めてくれるんだ」「生活感です」 森下さんは真面目な顔で言った。「器、もう藤崎さんの家の子になってますね」「家の子」「はい。展示会場にいた時より、たぶん馴染んでます」 その言葉に、私は少し笑った。 器が家の子になる。 森下さんらしい言い方だけれど、何となく分かる気がした。 買ったばかりの時は、まだよそから来たものだった。 でもヨーグルトを入れて、トマトを入れて、かぼちゃを入れて。 少しずつ、私の生活に馴染んできている。「作家さんにも、感想を話せたんだ」「え、直接ですか?」「うん。朝倉さんが、よければって」 森下さんの表情がさらに明るくなる。「すごいです!」「すごい?」「藤崎さん、自分の言葉をちゃんと外に出してます」 そう言われて、少し照れた。「緊張したけどね」「でも、言えたんですよね」「うん」「それ、すごいです」 森下さんは力強く頷いた。 私は画面の写真を見つめた。 普通のヨーグルトの話。 トマトのマリネの話。 かぼちゃの煮物の話。 そんな小さなことを人に話して、それを喜んでもらえるとは思っていなかった。 でも、話してよかった。 そう思えた。◇◇◇◇ 午後の仕事中、何度か朝倉さんの言葉を思い出した。
書店を出ると、夕方の空は少しだけ藍色に近づいていた。 昼間の明るさはまだ残っているのに、店先の灯りがもう目に入る。 掲示板には、さっきまで見ていた展示のチラシが貼られている。『小さな器と暮らしの写真展』 その文字をもう一度見て、私はバッグを少し持ち直した。 中に器は入っていない。 買った器は、もう私の部屋にある。 食器棚の白い器の隣で、次に使われるのを待っている。 でも今日は、別のものを持ち帰っている気がした。 作家さんの言葉。 朝倉さんの言葉。 普通の日の話を、また聞かせてください。 その一言が、胸の中で何度も静かに響いていた。 普通の日。 特別ではない日。 ヨーグルトを食べる朝。 少し薄い味噌汁を作る夜。 花瓶の水を替える時間。 洗濯物を畳む途中で、つい本を開いてしまう午後。 そういうものを、話していいと言われた。 むしろ、聞きたいと言われた。 それが、思っていた以上に嬉しかった。◇◇◇◇ 帰り道、私はスーパーに寄った。 今夜は何を作ろう。 展示に行く前から決めていたわけではない。 でも朝倉さんに、普通の日の話をまた聞かせてくださいと言われたら、なんとなく普通の夕飯をちゃんと作りたくなった。 特別な料理ではなくていい。 誰かに見せるためでもない。 私が食べるための夕飯。 野菜売り場で、かぼちゃと小松菜を見る。 トマトもある。 卵もまだ家にあったはずだ。 私は少し迷って、かぼちゃを手に取った。 それから、豆腐と小松菜もかごに入れる。 かぼちゃの煮物。 小松菜と豆腐の味噌汁。 あとは、卵焼き。 いつものようなメニュー。 でも、今日は新しい器に何を
朝倉さんが他の来場者の方へ向かったあと、私はもう一度展示室をゆっくり見て回った。 さっきまで見ていたはずの写真も、少しだけ違って見える。 作家さんに感想を伝えたあとだからかもしれない。 朝倉さんと、普通の日の話をしたあとだからかもしれない。 器も、写真も、ただそこに飾られているものではなくなっていた。 誰かが作ったもの。 誰かが撮ったもの。 誰かの生活に入って、少しずつ意味を変えていくもの。 そう思うと、展示室の白い壁まで少し温かく感じた。 私は『余白の席』の前で足を止めた。 丸いテーブル。 湯気の立つカップ。 向かいの椅子に置かれた布。 その椅子は、やっぱり寂しいだけには見えなかった。 空いている。 でも、拒んでいるわけではない。 誰かが座るかもしれない。 今日は何も置かれないかもしれない。 それでも、その余白はちゃんとそこにある。 私の部屋の二脚目の椅子も、きっと同じだ。 千尋が座った。 森下さんが座った。 紙袋や本を置いた。 何も置かない日もある。 そして今、私はそこにまだ知らない未来まで無理に座らせなくていいと思っている。◇◇◇◇ 展示室の端にある感想カードの机へ行き、私は少し迷ってからペンを取った。 今日、もう感想は書いた。 作家さんにも話した。 朝倉さんにも話した。 それでも、最後にもう一言だけ残したかった。 白いカードに、短く書く。『普通の日の中で使いたい器と、普通の日の中で思い出す写真に出会えました』 書き終えて、少しだけ手を止める。 普通の日。 その言葉が、今日何度も胸の中で響いていた。 特別な日ではない。 誰かに褒めてもらうための日でもない。
作家さんと別れたあと、私は展示室の窓際に近い場所へ移動した。 窓は小さく、外の景色はあまり見えない。 けれど、そこから入る光が壁の写真の端を少しだけ明るくしていた。「話してよかったです」 私が言うと、朝倉さんは静かに頷いた。「はい。とてもいい時間でした」「緊張しました」「そう見えました」「見えてましたか」「少し。でも、ちゃんと藤崎さんの言葉でした」 その言い方に、胸が小さく温かくなる。 ちゃんと私の言葉。 以前の私は、それを持つのが苦手だった。 相手が喜びそうな言葉。 場を乱さない言葉。 無難で、正しくて、誰かに迷惑をかけない言葉。 そういうものを先に探していた。 でも今日は、うまくなくても自分の言葉で話せた気がする。「普通のヨーグルトの話ですけど」「普通のヨーグルトの話がよかったんだと思います」 朝倉さんは少し笑った。「特別な料理より、器が本当に使われている感じがしました」「そうなんですね」「はい。日常に入ったんだなって」 日常に入る。 その言葉を聞いて、私は自分の部屋を思い浮かべた。 朝のテーブル。 青みのある器。 ブルーベリー。 グレーのマグカップ。 窓辺の花瓶。 そういう景色の中に、あの器はもうある。 買ったばかりなのに、少しずつ日常になっている。◇◇◇◇「朝倉さんは」 私は少し迷ってから聞いた。「はい」「写真を撮ったあと、その写真が誰かの日常に入ることってありますか」 自分で聞いて、少し抽象的だったかもしれないと思った。 でも朝倉さんは、急かさず考えてくれた。「あります」「あるんですね」「
土曜日だった。 本当なら少し遅くまで寝ていたい日なのに、私はいつもの時間に目が覚めた。 隣を見る。 ベッドは空だった。 私はぼんやり身体を起こし、リビングへ向かう。 悠斗はソファでスマホを見ていた。 「あ、おはよ」 「おはよう」 カーテンの隙間から朝の光が差し
結局その日、私は一人でラーメンを食べて帰った。 本当はもっと洒落たものでも食べようと思っていた。 せっかく外食する気分だったし、少しくらい贅沢してもいいかなって。 でも店を探す気力がなくなってしまった。 駅前のラーメン屋に入り、カウンター席へ座る。「ご注文どうされますか?」「あ、醤油ラーメンで」 店員に答えながら、自分でも少し驚く。 私は本当は塩派だ。 でも悠斗が醤油好きだから、気づけば家でも醤油ばかり作るようになっていた。 私は箸を持ったまま、ぼんやり湯気を見つめる。 好きなもの。 最近、自分の『好き』がよく分からない。 ラーメンを食べ終えて店を出ると、夜風が少
食器を洗い終わった頃には、時計は十一時を回っていた。 悠斗はまだ帰ってこない。 私は濡れた手をタオルで拭きながら、なんとなくリビングを見渡した。 静かだった。 冷蔵庫の低い音だけが聞こえる。 こんなふうに一人でいる時間なんて、昔はいくらでもあったはずなのに。 最近は妙に落ち着かない。
玄関のドアを開けた瞬間、部屋が暗いことに気づいた。 午後九時過ぎ。 いつもならテレビの音がしている時間だった。 「……ただいま」 返事はない。 分かっていたことなのに、少しだけ肩の力が抜ける。 私はヒールを脱いで揃える。 その横には、朝履いていった悠斗のスニーカーが無造作に転がっていた。 ――また。







